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阿部技術士・労働安全コンサルタント事務所は、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。

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〒771-1330 徳島県板野郡上板町西分字橋北16番地2

よろず見聞録46Experience & knowledge

46-6)眼鏡橋・日本二十六聖人殉教地・記念館

 2022年11月10日、日本二十六聖人殉教地記念館を訪れました(写真1参照)。記念館のホームページには、「日本二十六聖人記念館がフランシスコ・ザビエルに始まる日本とヨーロッパの出会いから生まれたキリシタン文化とキリスト教に対する迫害によって殉教した人々のメッセージを紹介する施設である」と紹介しています。ここ西坂の地では1597年から17世紀中頃まで、キリスト教徒であるために、多くの人々が処刑され、殉教したこと、そして、かつての日本に、信仰の自由を奪った時代があったという事実を改めて想起しなければなりません。
 11月9日に拝観した大浦天主堂は「日本二十六聖殉教者聖堂」が正式名称で、1862年、26人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会です。当初、大浦天主堂は二十六聖人殉教の地に建設を希望していましたが、西坂は外国人居留地外であったため建設の許可が下りませんでした。そこで已むなく、殉教の地である西坂に向けて建てられたのです。
 ホテルからタクシーで日本二十六聖人記念館に向かう途中、眼鏡橋に立ち寄りました。川面に映る影が双円で「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われています。この眼鏡橋は、1634年、興福寺の黙子如定禅師が架設したとされる現存最古のアーチ型石橋の一つで、国指定重要文化財に指定されています。また、護岸にあるハートストーンは恋愛成就のパワースポットとして注目されているそうです(写真2参照)。

写真1.日本二十六聖人殉教地・記念館(2022年11月10日撮影)

写真2.眼鏡橋と護岸のハートストーン(2022年11月10日撮影)
 当事務所では人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止をお手伝いします。また、ものづくりの現場の皆様の声を真摯に受け止め、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。(2022.11.10) 
                                           

46-5)出島和蘭商館跡(エスペリアホテル長崎泊)

 2022年11月9日、出島和蘭商館跡「出島」を訪れました。当日入手したパンフレットには「出島築造と日蘭交流」並びに「出島の復元」について次のように紹介されていました。
  
●1636年、長崎の町の岬の先端に徳川幕府の命により、長崎の25人の有力な町人が出資して出島が築造されまし  た。町の中で暮らしていたポルトガル人を収容し、貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みが完成しました  が、その翌年島原・天草一揆が起こり1639年ポルトガル船の来航は禁じられました。そののち当時平戸で貿易を  していたオランダの商館が出島に移され、以後、幕末で日蘭交流は続き、日本とヨーロッパ間の唯一の貿易地、ま  た蘭学を初め日本近代化に必要な情報の発信地として、出島は重要な役割を果たしました。
  ●第二次世界大戦後間もない1951年、出島の復元計画が動き出しました。もともと町人たちにより造られた出島  は民間の所有でした。その公有化に長崎市は50年の歳月をかけ取り組みました。ようやく第T期復元整備事業とし  てヘトル部屋など5棟が2000年に、第U期としてカピタン部屋など5棟が2006年に完成し、第V期として更に6棟  の建物が建ち並び2016年時点で16棟の19世紀初頭の街並みが出島に蘇っています。

 写真1の上段は出島の全体案内図で、下段は1820年頃の出島の模型(縮尺約1/15)です。写真2は復元が進む出島の街並みです。

写真1上段:出島全体案内図、下段:ミニ出島(2022年11月9日撮影)


写真2.上段:水門から東方向、復元された建物群
下段:旧石倉(考古館)から西方向、復元された十四番蔵など(2022年11月9日撮影)

 当事務所では人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止をお手伝いします。また、ものづくりの現場の皆様の声を真摯に受け止め、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。(2022.11.9)
                                               

46-4)シーボルト記念館・長崎歴史文化博物館

 2022年11月9日、平和公園見学の後、JR長崎駅「長崎街道かもめ市場」で昼食、JR長崎駅前から新中川町まで電車で移動後、坂道を徒歩で約10分、14時頃、シーボルト宅址(鳴滝塾)に到着しました。その後、シーボルト記念館に移動、シーボルトの偉業に触れることができました(写真1参照)。
 シーボルトは1796年2月17日にドイツの医学者の家に生まれ、医学部卒業後、オランダの軍医となり、オランダの命令で日本に来ることになったようです。
 1823年8月11日、長崎に到着したシーボルトは長崎出島蘭館医師として、勤務していましたが、優秀な医者の腕を買われ、特別に許されて出島の外でも診察をするようになりました。そして、1年後には長崎奉行に許しをもらい、鳴滝に土地を購入し、診療所兼学舎を建て、出島から通って日本人の診療と医学や自然科学などを教えました。
 この学舎が「鳴滝塾」で、西洋医学を学ぶため日本各地から医者たちが集まってきました。塾生は、二宮敬作、美馬順三、岡研介、高良斎、高野長英、伊東玄朴、戸塚静海ら50余名にのぼり、日本における蘭学に大きな影響を与えました。初代塾頭の美馬順三と高良斎は阿波国の出身と紹介されていました。
 シーボルト記念館の後、長崎歴史文化博物館に向かいました。写真2は入館時に入手したパンフレットの一部を引用したものです。奥の黒い建物が歴史文化展示ゾーン、手前の白っぽい建物が長崎奉行所ゾーンです。長崎奉行所立山役所は、江戸時代の絵図面や発掘された遺構などをもとに当時あった場所に復元整備されています。写真撮影については制限が多かったのですが、西洋との出会い、朝鮮との交流、長崎貿易、中国との交流、長崎の暮らし、長崎の美術工芸、オランダとの交流、近代化の魁・長崎まで整然と展示されていました。
 長崎県は、明治維新までは幕府直轄地としての天領と、佐賀、大村、島原、平戸、福江、厳原の諸藩に分かれていました。また、1570年頃の長崎は、大村藩大村純忠の家臣・長崎甚左衛門の領地で小さな漁村だったのですが、天然の良港であったため、ポルトガル船の来航によって、港町として発展し、人口も増えたようです 

写真1.上段:シーボルト宅址(鳴滝塾)中段:シーボルトノキ、
下段左:シーボルト記念館入口
下段右:シーボルト宅址にある胸像(2022年11月9日撮影)


写真2.長崎歴史文化博物館
(出所:2022年11月9日入手したパンフレットの一部を引用)

 当事務所では人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止をお手伝いします。また、ものづくりの現場の皆様の声を真摯に受け止め、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。(2022.11.9)
                                           

46-3)長崎原爆資料館・平和公園

 2022年11月9日、長崎原爆資料館を訪れました。当館は、長崎市の被爆50周年記念事業の一つとして1996年4月にそれまで被爆資料を展示していた長崎国際文化会館を建て替えて開館したと入館時に入手したパンフレットに記載されていました。地上1階、地下2階で、地下2階に観覧券売り場と入り口があります。常設展示は地下2階で、写真撮影については個別の資料を接写するのは禁止されていました。
 当館には、原子爆弾がもたらした熱線、爆風、放射線による被害の惨状のみならず、原爆投下に至った経過、核兵器開発の歴史、平和希求などストーリー性のある展示が行われています。被爆により自らも重い傷を負ったその直後から負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ永井隆博士の展示コーナーには次の言葉が掲示されていました。
「平和を祈る者は、一本の針をも隠し持っていてはならぬ。たとえ自衛のためでも武器を持っていては平和を祈る資格はない」
 山王神社の参道には強烈な爆風により鳥居の半分が倒壊し、右半分の柱だけを残した鳥居が当時のまま残っており、原爆の悲惨さを現代に語り継いでいます。
 原爆資料館を見学の後、長崎平和公園には正午ごろ着きました。平和公園は長崎駅の北約2.5kmにある、面積約18.5haの総合公園です。世界平和と文化交流のための記念施設として1951年に整備されました。平和祈念像は1955年の被爆10周年に向けた記念行事の一貫として長崎市が建設を計画し、1951年に着工、1955年の8月8日に完成しました。天に向けて垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を表しています。

写真1.長崎原爆資料館(2022年11月9日撮影)


写真2.長崎平和公園・平和祈念像&総合案内板(2022年11月9日撮影)
 当事務所では人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止をお手伝いします。また、ものづくりの現場の皆様の声を真摯に受け止め、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。(2022.11.9)
                                           

46-2)大浦天主堂・稲佐山夜景(ホテルモントレ長崎泊)

2022年11月8日、大浦天主堂を拝観しました。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2018年6月に世界遺産に登録されました。関連資産には「原城跡、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳、中江ノ島)、天草のア津集落、外海の出津集落、外海の大野集落、黒島の集落、野崎島の集落跡、頭ヶ島の集落、久賀島の集落、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)」があり、大浦天主堂を合わせて全12資産で構成されています(写真1参照)。
 文化庁のホームページには大浦天主堂について次のように紹介されています。
  
大浦天主堂は、潜伏キリシタンが新たな信仰の局面を迎える契機となった「信徒発見」の場所である。それは自由  に信仰を表明することのできなかった潜伏キリシタンが既存の社会・宗教と共生しつつ自らの信仰を継続すること  により育んだ伝統が変容し、終焉を迎える契機となった場所である。大浦天主堂は、19世紀後半の日本の開国によ  り来日した宣教師が1864年に建造した教会堂であり、16世紀に長崎において殉教した日本二十六聖人に捧げられ  た。献堂の直後、長崎近郊の潜伏キリシタンが密かに訪れ、自分たちの信仰を宣教師に告白した「信徒発見」の舞  台である。その後に続く大浦天主堂の宣教師と各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触は、それぞれの集落に  おいて新たな信仰の局面をもたらした。
 当初、大浦天主堂は二十六聖人殉教の地に建設を希望していました。しかし、西坂は外国人居留地外であったため建設の許可が下りませんでした。そこで已むなく、殉教の地である西坂に向けて建てられた大浦天主堂は「日本二十六聖殉教者聖堂」が正式名称で、1862年、26人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会なのです。
 そして、1865年2月19日の献堂式から1月にも満たない3月17日に浦上の潜伏キリシタン十数名が天主堂を訪れ、自分たちの信仰を宣教師に告白したのです。キリスト禁教令から約250年もの間、長崎のキリシタン達は潜伏し、信仰を続けていたのです。
 電停思案橋駅から徒歩1分、思案橋横丁入り口にある居酒屋「はち舎」で夕食の後、タクシーで稲佐山に向かいました。11月8日は運良く稲佐山山頂で皆既月食を見ることができました。今回は同時に天王星食も見られるとのことで、国立天文台によると、日本で皆既月食中に、天王星食のような惑星食が見られるのは、安土桃山時代の1580年以来、実に442年ぶりとのことでした。
 展望台へは淵神社駅から山頂駅まで長崎ロープウェイで5分、写真2上段は標高333mの山頂にある稲佐山公園展望台から長崎駅の方角、ベイエリアを望む夜景です。右手の方向に三菱重工業長崎造船所のジャイアント・カンチレバークレーンも見えています。このクレーンは1909年に導入されたスコットランドのアップルビー社製で、同型で現存しているものは少なく、現役で稼働している世界最古のものです。
 長崎市は夜景の魅力を高めようと、長崎市が斜面地に計35個の発光LEDライトを取り付け、2020年10月から毎日午後8時から9時50分まで、「はと座」など7種の星座と共にハートマークを浮かび上がらせています(写真2下段右)。また、長崎市のランドマークともいえる稲佐山山頂の電波塔は毎日日没から午後10時までライトアップしています(写真2下段左)。

写真1.大浦天主堂
(出所:11月8日入手した拝観パンフレットに当日撮影した写真を貼付)


写真2.上段:稲佐山夜景、下段左:稲佐山山頂の電波塔
下段右:稲佐山夜景に浮かぶ
ハート(2022年11月8日撮影)
 当事務所では人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止をお手伝いします。また、ものづくりの現場の皆様の声を真摯に受け止め、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。(2022.11.8)
                                           

46-1)長崎孔子廟

 2022年11月8日、長崎空港には定刻の11時に到着、長崎市内行きのリムジンバスで約35分、長崎新地ターミナルで下車。中華菜館福壽で昼食を済ませた後、中華街を抜ける方向を間違い遠回りをしたため、オランダ坂を左手に見てホテルモントレ長崎には13時半頃着きました。チェックインの前であったが、フロントに荷物を預け14時頃、長崎孔子廟に着きました。写真1は当日入手したパンフレットに記載されていた配置図と説明用写真の一部に当日撮影した写真を合成したものです。長崎孔子廟は1893年に清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国様式の孔子廟と言われています。
 清朝は1616年に満洲に建国され、1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝です。孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げた結果、1911年10月の辛亥革命により、1912年1月1日、清朝は倒れ、中華民国が樹立されるのですが、長崎孔子廟が建設された1893年は政情不安定な時期と重なります。

写真1.長崎孔子廟配置図
(出所:2022年11月8日入手したパンフレットと撮影した写真を合成)



写真2.長崎孔子廟・儀門(2022年11月8日撮影)


写真3.長崎孔子廟・論語(2022年11月8日撮影)

 当事務所では人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止をお手伝いします。また、ものづくりの現場の皆様の声を真摯に受け止め、ものづくりの現場における労働安全の構築と品質の作り込みをサポートします。(2022.11.8)
                                           

46)長崎孔子廟・大浦天主堂・稲佐山夜景ほか長崎市内(下図のルート)

 2022年11月8〜10日、長崎市を訪れました。8日は大阪空港発9時40分発の長崎空港行に乗るため松茂発5時50分の徳島バスに乗車、三宮経由、大阪空港には8時50分頃到着しました。今回の旅のルートは以下のとおりです。今回も函館同様、フライトとホテルが選べるフリープランを利用しましたが、幸運にも当ツアーは全国旅行支援割引の対象となっておりました。
・自宅⇒松茂⇒神戸三宮⇒伊丹・大阪空港⇒長崎空港⇒
・長崎新地バスターミナル⇒新地中華街⇒昼食⇒ホテルモントレ―長崎
・長崎孔子廟⇒大浦天主堂⇒ホテルモントレ長崎⇒夕食⇒稲佐山夜景⇒ホテルモントレ長崎泊
・長崎原爆資料館⇒平和公園⇒JR長崎駅⇒昼食⇒シーボルト記念館⇒長崎歴史文化博物館⇒出島和蘭商館跡⇒夕食⇒エスペリアホテル長崎泊
・眼鏡橋⇒西坂公園・日本26聖人殉教の地・記念館⇒JR長崎駅⇒昼食⇒県営バスターミナル⇒長崎空港⇒大阪空港⇒神戸三宮⇒松茂⇒自宅
図1.長崎市内中心部マップ(出典:NAGASAKI MAP(日本語)長崎市発行)
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